愛称は「ガッザ」。1984年にニューカッスル・ユナイテッドに入団。軽快なパスワークなどで得点をアシストし、1988年にはトッテナムへ移籍。1989年には代表に招集される。1990年のイタリアW杯では6試合に先発出場し活躍する。準決勝、西ドイツ戦での涙を流すシーンは名場面である。
その後右膝の故障で活躍も影を潜めていたが、1992年にはセリエA・ラツィオへ移籍し復活する。シニョーリとのコンビは美女と野獣と呼ばれた。
代表でも、体調面での心配が囁かれたがEURO1996で鮮やかなプレーを連発し、完全復活を印象付けた。いわゆるオーソドックスなプレーをする選手が多いイングランド代表の中では異色の存在であり、スキル・発想力の溢れたプレーを随所に見せた。スコットランド戦の素晴らしいゴールは未だ色褪せないパフォーマンス。
しかし、無類の酒好きで問題をしばしば起こし、1998年のフランスW杯で代表を外されて以降、下降線をたどり2003年には中国のサッカークラブに移籍したが生活環境に馴染めずすぐに退団。イングランドの下部リーグへ在籍した後、現役を引退している。
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1990年、リヴァプールでキャリアをスタート。1992年にはFAカップ優勝を果たすとその活躍が評価され、1995年11月には対ナイジェリア戦で代表デビュー。翌年のEURO1996にも左サイドハーフとして出場した。イングランドきってのドリブラーで、チームメイトを引き連れながらドリブルで敵陣へ突入していく様は壮観である。そのドリブルテクニックはイングランドの名ドリブラー、スタンリー・マシューズに絶賛されている事からも伺える。EURO1996までは代表チームの中心選手かつ牽引役であったが、監督が交代し、またベッカムが頭角を現して代表に呼ばれるようになると、チーム編成の変更を余儀なくされて控えに回ることが多くなった。1998年のフランスW杯での出場はわずか20分程度に留まる。
クラブでは、1999-2000シーズンよりリーガ・エスパニョーラの強豪レアル・マドリードへ移籍。2度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝やリーグ制覇に貢献した。しかし、ルイス・フィーゴやジネディーヌ・ジダンらの加入により次第に出場機会が減少した。また、皮肉にも後にベッカムが加入しスタメンに定着した。互いにハンサムなことで知られる二人には妙な縁がついてまわることになったが、ドリブラーとパサーという全く異なるプレースタイルゆえ、選手起用については監督の好みや商業的要素に左右された面があったように思われる。2003-2004シーズンよりマンチェスター・シティへ移籍し、2シーズンプレーした後、現役を引退している。
1975年、トッテナムに入団するとその年にリーグ戦デビューを飾り、1979-1980シーズンには19得点を挙げる活躍で最優秀若手選手賞に選ばれるとともに、1979年11月22日のブルガリア戦で代表デビューを果たし初得点をマーク。翌年開催されたEURO1980にも出場、1982年のスペインW杯にも2試合ながら出場した。
その後もトッテナムの主力として活躍を見せ、1983-1984シーズンにはUEFAカップ優勝のタイトルを獲得。1986年のメキシコW杯では5試合に出場し、ベスト8進出の原動力となった。1987-1988シーズンよりモナコへ移籍し、同シーズンのリーグ制覇に貢献。EURO1988を最後に代表を退き、1990-1991シーズンを最後に現役を引退した。
引退後、1991-1992シーズンからは再びイングランドへ戻り、2部に相当するスウィンドン・タウンを指揮。指導者としてのスタートを切るとともにFAプレミアリーグ昇格へ導く活躍を見せた。その後、1993年から3シーズンチェルシーの監督を務め、EURO1996終了後、テリー・ベナブルズの後を受けてイングランド史上最年少、38歳の若さでイングランド代表監督に就任した。
1998年のフランスW杯予選ではイングランドを2大会ぶりのワールドカップ出場に導き、本大会で指揮を執ったが、代表の中心選手であったポール・ガスコインを外し論議を呼んだ。翌年「障害者は前世の罪の報いを受けている」と発言したことが基になり代表監督を解任されている。
その後、2000-2001シーズンにサウサンプトンの監督に就任。 2000-2001シーズン途中に古巣トッテナムの監督に就任。当初は元スター選手の帰還という事で、トッテナムファンからは 歓迎されたが、思うような成績が残せず2002-2003シーズン途中で解任。この結果に本人はかなり落ち込んだという。 現在はウォルバーハンプトンの指揮を執っている。
1932年、17歳でストーク・シティとプロ契約し1934年9月29日にはウェールズ戦で代表デビューを果たす。1939年、第2次世界大戦の影響によりイングランドリーグは中止となり彼のキャリアは一時中断する。7年ぶりにリーグ戦が再開された翌年の1947年ブラックプールへ移籍。
1953年5月3日FAカップ決勝戦ボルトンとの試合ではロスタイムでの大逆転劇勝利の立役者となり、この試合は『マシューズ・ファイナル (Matthews Final) 』と呼ばれFAカップ史上最も劇的な試合とされている。
1961年、当時2部のストーク・シティに戻り、1年後の62-63シーズンには1部昇格を果たす。1965年2月6日のフラム戦を最後に引退した。50歳での出場は最年長記録である。
イングランド史上に残る天才ウイングプレイヤー。『ドリブルの魔術師』の異名を持ち、右アウトサイドで繰り出すフェイントテクニックや華麗なドリブルテクニックは『マシューズ・トリック』と呼ばれた。1956年には最初のバロンドール受賞者となり、1965年にはサッカー選手としては初めてナイトの称号『サー』を授かる。ちなみにバロンドール自体がマシューズを称えるために作られたという話さえある。17歳でプロデビューし引退したのは50歳、この33年間の現役時代、一度も警告を受けた事が無いというまさに「究極のフェアプレイヤー」であると言える。
サウサンプトンFCのユースチームを経て、1987年にトップチームに昇格。デビュー戦となったアーセナル戦でいきなりハットトリックを達成する活躍を見せた。以降、ゲーリー・リネカー引退後のエースストライカーとしてファンの期待を集め、イングランド代表にも招集。1992年2月19日のフランス戦で代表デビューを果たす。同年プレミアリーグに昇格したばかりのブラックバーン・ローヴァーズへ移籍すると、1994-95シーズンにクラブを優勝に導くとともに自身も得点王に輝き、このシーズンでリーグ通算100ゴールを達成している。
その後活躍が認められ、ビッグクラブからのオファーが相次いだ(マンチェスターには家まで買っていたという)が、故郷であるニューカッスル・ユナイテッドでプレーすることを決意。自らが尊敬する元代表フォワード、ケビン・キーガンが監督を務めていたことも後押しとなった。ニューカッスル移籍後も順調に活躍し、3年連続プレミアリーグ得点王の快挙を達成した。1996年に地元開催となったEURO1996では、チームはベスト4に終わったものの得点王に輝いてた。
2002年、プレミアリーグ創設10周年を記念して国内最優秀選手に選出。また2004年には、国際サッカー連盟(FIFA)創設100周年記念式典でペレが選出した、“偉大なサッカー選手100人” 「FIFA 100」のひとりに選ばれている。