1975年、トッテナムに入団するとその年にリーグ戦デビューを飾り、1979-1980シーズンには19得点を挙げる活躍で最優秀若手選手賞に選ばれるとともに、1979年11月22日のブルガリア戦で代表デビューを果たし初得点をマーク。翌年開催されたEURO1980にも出場、1982年のスペインW杯にも2試合ながら出場した。
その後もトッテナムの主力として活躍を見せ、1983-1984シーズンにはUEFAカップ優勝のタイトルを獲得。1986年のメキシコW杯では5試合に出場し、ベスト8進出の原動力となった。1987-1988シーズンよりモナコへ移籍し、同シーズンのリーグ制覇に貢献。EURO1988を最後に代表を退き、1990-1991シーズンを最後に現役を引退した。
引退後、1991-1992シーズンからは再びイングランドへ戻り、2部に相当するスウィンドン・タウンを指揮。指導者としてのスタートを切るとともにFAプレミアリーグ昇格へ導く活躍を見せた。その後、1993年から3シーズンチェルシーの監督を務め、EURO1996終了後、テリー・ベナブルズの後を受けてイングランド史上最年少、38歳の若さでイングランド代表監督に就任した。
1998年のフランスW杯予選ではイングランドを2大会ぶりのワールドカップ出場に導き、本大会で指揮を執ったが、代表の中心選手であったポール・ガスコインを外し論議を呼んだ。翌年「障害者は前世の罪の報いを受けている」と発言したことが基になり代表監督を解任されている。
その後、2000-2001シーズンにサウサンプトンの監督に就任。 2000-2001シーズン途中に古巣トッテナムの監督に就任。当初は元スター選手の帰還という事で、トッテナムファンからは 歓迎されたが、思うような成績が残せず2002-2003シーズン途中で解任。この結果に本人はかなり落ち込んだという。 現在はウォルバーハンプトンの指揮を執っている。
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ボルトン・ワンダラーズの下部組織でサッカー経験のあるイングランド人の父親とウェールズの母親の元、カナダにて生まれる。
バイエルン・ミュンヘンとの契約は2010年まで残っていたが、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督が以前からハーグリーヴスに獲得の意志を見せ、さらにハーグリーヴス自身も移籍願望を口にしていた。2007年5月、バイエルン・ミュンヘンからマンチェスター・ユナイテッドに正式に移籍することが決定。2007-08シーズンからプレミアリーグでプレーする。移籍金はブンデスリーガ所属選手では過去最高の2500万ユーロ(約41億円)と報道されている。
1997年にバイエルン・ミュンヘンに入団。当時の監督オットマー・ヒッツフェルトに重用され2000-01シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝第2戦で出場停止のシュテファン・エッフェンベルクの代役として出場し、一躍注目を浴びる。翌2001-02シーズンには早くもレギュラーを獲得し、以降地位を確立している。
1954年17歳でマンチェスター・ユナイテッドに入団。当初は控えが続いていたが、1956年にレギュラーに定着、中心選手となり、1956-57シーズンにはリーグ優勝を経験した。しかし1958年2月6日、チャンピオンズカップの準々決勝、レッドスター・ベオグラード戦からの帰路、『ミュンヘンの悲劇』と呼ばれる飛行機事故に遭い、彼が最も尊敬する選手だったダンカン・エドワーズを含む多くの仲間を失ってしまう。奇跡的に大きな怪我なく命をとりとめたボビーだったが、この年のワールドカップには帯同するも、精神的なショックもあり全くボールを蹴ることが出来なかったとのこと。
しかしその後、不屈の精神でチームの建て直しに貢献する。1960年代には若手のジョージ・ベスト、デニス・ロー等と共に一時代を築き、1963年にはFAカップを、1965年と1967年にはリーグを制するなど、黄金時代を築き上げる。個人としても1966年に欧州最優秀選手であるバロンドールを受賞。そして悲劇から10年後の1968年、チャンピオンズカップ決勝でベンフィカを下し、悲願の、そしてイングランドのチームとして初めての欧州タイトルを手にしている。
イングランド代表デビューは1958年4月19日スコットランド戦。デビュー戦でもゴールを挙げている。しかし、代表の3試合目が不運なことに悲劇を思い起こさせるベオグラードでのユーゴスラビア戦だった。この試合でボビーは著しく精彩を欠き、その年のワールドカップまで精神的なダメージを引きずることになる。
1962年のチリにおけるワールドカップでは中心選手として活躍するも、準々決勝でブラジルに敗れる。
しかし1966年、自国開催のイングランドワールドカップで母国初の優勝に貢献する。1970年のメキシコ大会にも出場した。通算3度のワールドカップに出場し14試合出場4得点。
名実ともにイングランドを代表したフットボール選手として、1994年にはナイトの称号『サー』を授かる。代表試合成績は106試合で、49得点をあげている
アーセナルが最高24億円という移籍金を支払い獲得、さらには惜しくも出場はならなかったが2006 FIFAワールドカップのイングランド代表に17歳3ヶ月足らずで召集とトントン拍子で飛躍している選手。アーセナルとともにチェルシーも狙っていたが、本人の強い希望もありアーセナルへ入団することになる。若手育成に定評のあるベンゲル監督とティエリ・アンリの存在が決め手となった。
代表デビューはワールドカップ直前の親善試合、ハンガリー戦。後半20分にマイケル・オーウェンに代わって出場し、後半43分には初シュートも放った。17歳75日のイングランド代表史上最年少デビューを飾り、ルーニーが持っていた17歳111日の記録を塗り替えた。2007年2月25日に行われたフットボールリーグカップ決勝(対チェルシー戦)において、プロ初ゴールを決めている。
フレドリック・ユングベリに似た俊敏な動き、ティエリ・アンリのような冷静さを持ち合わせる。100mを11秒4で走るといい、イングランドの将来を担っていく存在といわれる。ティーンエイジャーの時期に注目を浴びたことでウェイン・ルーニーと度々比較されるが、代表デビューの早さ以外では今のところ同年齢時の実績でルーニーよりも相当見劣りしている