マンチェスター・ユナイテッド下部組織からの生え抜きであり、ファーガソン監督の目に止まったことを機に、若くしてアタッカー的役割を任せられた。エースの証である背番号7を背負い、マンチェスターU時代後期はクラブのエース・顔として君臨した。 中盤の右サイドでプレイし正確なクロスを上げチャンスを演出していた。
レアル・マドリードに移籍後は会長の意向を具現化するように、右にベッカム、左にフィーゴ、中にジダンという並びにしたが、このマドリーの中盤前線で明らかにボールキープのテクニックが劣るベッカムは機能せず(またチーム自体がハイクロスを必要としていなかったため)余りにもバランスが悪く守備に負担が掛かるために、フィーゴを右に戻し、ベッカムを1列下がったポジションでプレイさせることになった。これにより彼は尊敬するブライアン・ロブソンと同じポジションをすることになった。しかしフィードでは貢献したもののピボーテとしては機能しなかったため、フィーゴの退団後は中盤の右サイドでプレイし、ルシェンブルゴ監督下では徐々に本来の輝きを取り戻すに至った。しかし、カペッロ監督の構想から外れ、新加入のレジェスとロビーニョにポジションを奪われた。
マドリードとの契約は延長せずメジャーリーグサッカー(アメリカ合衆国)所属のクラブチーム、ロサンゼルス・ギャラクシーと2007年8月から5年契約を結ぶことを明らかにした。するとカペッロは「シーズン中に移籍を決めた選手は忠誠心がない」としてベッカムを出場させない決断をしていたが、常に練習を懸命に行う彼の姿を見てラウールやグティがカペッロに出場を懇願し、カペッロもレアル・ソシエダ戦にて撤回した。そして、シーズン終盤には再びポジションを獲り戻す。ベッカム復帰後、沈みかけていたチームは再浮上することに成功、4年振り30度目のリーガ制覇を成し遂げた。
2007年1月12日、レアル・この成果に復帰後のベッカムの多大な貢献があったことは確実視され、マドリーファンの多くやメディアを中心に彼を冷遇した監督ないしクラブ上層に対する批判が少なからず行われた。後にカペッロは「賢者は過ちを繰り返さない。」と自分のミスを認める発言をしている。
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子供の頃からリヴァプールFCのアカデミー(下部組織)でその才能を磨き、1998年に右サイドバックとしてトップチームデビューを飾る。デビュー当初は荒っぽい守備が目立ち、たびたびカードをもらっていたが、そのダイナミックな攻撃参加はリヴァプールの未来を感じさせた。その後はポジションを中盤にコンバートされレギュラーに定着する。
2003-2004シーズン後にチームの大エース・オーウェンが移籍したが、ジェラードは記者会見で「私はこのクラブとサポーターを愛している。」と残留を明言。この言葉はオーウェンを失ったサポーターを大いに勇気づけた。翌年、キャプテンマークをサミ・ヒーピアから受け継ぎ、名実ともにチームの顔となる。
そのジェラードの存在感が発揮されたのは翌年のUEFAチャンピオンズリーグである。リーグ戦で低迷するチームを鼓舞しながら、自らはオリンピアコス戦を始めとする劇的なスーパーゴールを連発し、リヴァプールの上位進出の原動力となる。決勝となったACミラン戦では3-0のビハインドを覆し、リヴァプールの21年ぶりとなるCL優勝に大きく貢献する。(この決勝戦のことはイスタンブールの奇跡と呼ばれる)。また、シーズン終了時に同じプレミアリーグのチェルシーの移籍がほぼ決定していたらしいが、チームがCL優勝を決めたことでジェラードは残留を決めた。
2005年、12月にはFIFAクラブワールドカップでヨーロッパ代表として来日。リヴァプールは準優勝に終わったが、テレビの宣伝などで日本での知名度は一気に上がっている。
2000年代のリヴァプールの象徴であり魂がある選手で、100年を超すリヴァプールの歴史を通しても、サポーターからはケニー・ダルグリッシュに次ぐ最高殊勲選手と目されてる
イングランド代表でも不可欠な選手とされており、2006年のドイツ・ワールドカップで2得点をあげる活躍をしたことから、本人も望むイングランド代表の次期キャプテンはジェラードで決まりだと噂されていたが、デビッド・ベッカムからキャプテンマークを引き継いだのはライバルチーム・チェルシーのキャプテン、ジョン・テリーであった。
イングランド、ロンドン出身の同国代表サッカー選手。ポジションはミッドフィルダー/フォワード。主にウィンガーとしてプレーする。
アーセナルの英雄、イアン・ライトの養子。タイプこそ全く異なるがデビッド・ベッカムの後継者と言われる右サイドを主戦場とするサイドアタッカー。スピード溢れるドリブルを得意としており、切れ込んでのロングシュートも持ち味。 ドイツW杯予選デンマーク戦、前の試合レッドカードで出場停止のベッカムに替わって右サイドハーフを任され先発出場。引けをとらないプレーで存在感をアピールした。しかし、本大会の選考からは漏れ出場することはできていない。
チェルシー移籍後は厚い選手層の為に、以前のようなインパクトを見せる機会は少ないが、それでも毎回代表メンバーには選出。ポテンシャルの高さには疑いの余地はないだろう。
義弟のブラッドリー・ライト=フィリップスも古巣マンチェスター・シティ所属のサッカー選手。
若手育成に定評があるウェストハムの下部組織で育ち、1999年、弱冠17歳でトップデビューを果たす。 ウェストハムではキャプテンを努めるほどに成長するが、02/03シーズンに自身の怪我もありチームは降格してしまう。これを機に2003年夏、CL出場と代表定着のため、£660万でチェルシーに移籍。アブラモヴィッチ体制初年度の注目選手の一人として背番号10を背負う。しかし、ベロンら他の新加入選手の存在もあり、ラニエリの下、不遇のシーズンになる。しかしベロンからは、その技術の高さを絶賛されるほどである。
シーズン当初はサブとして起用されていたが、左ウイングのロッベンの負傷で、モウリーニョはダミアン・ダフを左ウイングへ回して、コールを右ウイングで起用する。これが見事に当たり、持ち前のドリブルを生かしたプレーが増えた。モウリーニョの指導で守備も改善し、フィジカル面でも成長を見せている。
ボルトン・ワンダラーズの下部組織でサッカー経験のあるイングランド人の父親とウェールズの母親の元、カナダにて生まれる。
バイエルン・ミュンヘンとの契約は2010年まで残っていたが、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督が以前からハーグリーヴスに獲得の意志を見せ、さらにハーグリーヴス自身も移籍願望を口にしていた。2007年5月、バイエルン・ミュンヘンからマンチェスター・ユナイテッドに正式に移籍することが決定。2007-08シーズンからプレミアリーグでプレーする。移籍金はブンデスリーガ所属選手では過去最高の2500万ユーロ(約41億円)と報道されている。
1997年にバイエルン・ミュンヘンに入団。当時の監督オットマー・ヒッツフェルトに重用され2000-01シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝第2戦で出場停止のシュテファン・エッフェンベルクの代役として出場し、一躍注目を浴びる。翌2001-02シーズンには早くもレギュラーを獲得し、以降地位を確立している。