ポジションは主に右サイドバックで、特に守備能力が高く、稀にCBをすることもある。エヴァートン所属のミッドフィルダー、フィリップ・ネヴィルは弟にあたる。ユース出身のベッカムやギグス、スコールズ、バットなどマンチェスター・ユナイテッドの黄金期を築いたいわゆる「ファーギー・ベイブス」の一員である。05-06シーズン途中には、ロイ・キーンの電撃退団を受け、チームの新キャプテンに任命された。
決してフィジカルやテクニックが傑出しているわけではないが、その抜群の安定感と豊富な運動量は、計算できるプレーヤーとして監督から重宝がられる。特に、ユース時代から共にコンビを組み、イングランド代表では現在でも一緒に右サイドでプレーするベッカムとの相性は抜群。センタリングの精度も高く、センターバックもこなせるというユーティリティー性も兼ね備える。熟練したオフザボールの動きで味方の調和を引き出し、同時に敵の攻撃を封じる百戦錬磨の戦略家。ライン調整に不安は見せるが、対面のサイドアタッカーを巧妙に牽制してユナイテッドの堅守を支えて続けている。
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少年時代からチェルシーFCのアカデミー(下部組織)に所属する。トップチームに昇格したての頃は同じポジションにマルセル・デサイーやフランク・ルブーフがいたため出場機会はほとんどなかったが、ノッティンガム・フォレストへのレンタル移籍を経て2000-01シーズン、当時の監督だったクラウディオ・ラニエリに重用され出場機会が増加。ロマン・アブラモヴィッチがチームを買収した2003-04シーズンには衰えが隠せなくなったデサイーに代わりディフェンスラインを統率した。
2004年にジョゼ・モウリーニョが監督に就任するとチームのキャプテンに指名される。モウリーニョがフランク・ランパードらイングランド人とともに主将テリーに託した「率先してチームを引っ張ってほしい」という言葉通りに抜群のキャプテンシーを発揮。守っては、そのモウリーニョとともにやって来た新加入のディフェンダー・リカルド・カルヴァーリョとともにリーグ最小失点の堅陣を築いた。ディフェンスだけには収まらず攻撃の場面では得意のヘディングでゴールを量産した。中でもUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント一回戦FCバルセロナ戦でのヘディングのゴールはチームを救う一撃となった。
2006年10月14日のレディングFC戦では、GKのペトル・ツェフが前半開始早々に相手MFスティーヴン・ハントのひざが頭に直撃し負傷退場となった上に、代わりに出場した控えGKのカルロ・クディチーニも後半ロスタイムに相手DFと接触し負傷退場となってしまった。この時、すでに交代枠を3人使いきっていたため、テリーがわずかな時間ながら代役GKとしてゴールマウスを守ることになり、自らのポジションであったセンターバックはFWのドログバが入ることになった。
地元アーセナルの下部組織に加入し、クリスタル・パレスへ一時在籍した後、アーセナルへ復帰。持ち前の突破力と的確なクロスでレギュラーを掴み、2001-2002シーズンにはFAプレミアリーグとFAカップでそれぞれ優勝をおさめた。
その活躍が認められ、2001年3月28日のアルバニア戦で代表デビューを果たし、2002年の日韓W杯では5試合に出場した。
FIFAワールドカップ後にイギリスの人気アイドルグループであるガールズアラウドのシェリル・トゥイーディーと結婚をしている。
2005年にはアーセナルの許可なしにチェルシーがコールに不正交渉し処分された。その後もレアル・マドリードなど移籍の噂が絶えなかった。結局、2006年にはウィリアム・ギャラス+700万ユーロとのトレードでチェルシーに移籍。その後、序盤はあまり馴染めずにいたものの徐々に順応していき、レギュラーとしてチェルシーの左サイドを守っている。
1992年にトットナムに入団。次第に頭角を表し始め、イングランド代表にも招集。1996年5月18日のハンガリー戦で代表デビューを果たす。その後1998年のフランスW杯では守備の要として活躍した。
2001年、ノースロンドンのライバル・トットナムからアーセナルへ移籍し、議論を呼んだ。2002年の日韓W杯、2004年のEURO2004でも活躍を見せた。
ポーツマスではレギュラーのセンターバックとして大活躍し、ポーツマス躍進の原動力となった。
しかしここ数年は怪我が多く、フル出場できないでいる。さらに2005年末には試合で大きなミスをし自信を喪失、数日行方不明の後練習に復帰したものの悪夢を振り払うことができず、引退説がまことしやかにさわがれていたが、2006年に入ってから本来の調子を取り戻し、UEFAチャンピオンズリーグの決勝戦では先制点を挙げたが、シーズン終了後に契約満了でアーセナルを退団した。その後ポーツマスと2年契約を結んだ。しかし、W杯ドイツ大会ではジョン・テリー、リオ・ファーディナンドの控えに甘んじ、出場機会はスウェーデン戦での交代出場による1試合のみにとどまっている。
1995年にウエストハム・ユナイテッドでキャリアをスタート。その後スウォンジー・シティにレンタル移籍する。復帰後はあまり活躍できずにいたが徐々に頭角を現していき、1998-99シーズンは全試合に出場する。そして1999年イングランド代表にも招集され着実に成長していく。しかし、ウエストハム・ユナイテッドでは数シーズンに渡って経験を積むが、伯父のハリー・レドナップが監督、父親のフランク・ランパード・シニアがコーチであったために、調子が悪いときには批判のターゲットとなっていた。ファンから愛されず、またレドナップ、フランク・シニアが不明確な理由でクラブから解雇されてしまい、自身の環境転換の為に2001年夏に1100万ポンド(約24億円)でチェルシーへ移籍する。移籍後は、センターハーフとしてすぐにレギュラーを獲得。チームの中心選手として活躍する。
モウリーニョ監督の「国内選手にチームを引っ張ってほしい」との方針から、チェルシーでは副キャプテンを務める。2006-07シーズンでは故障がちなジョン・テリーに代わって、多くの試合でキャプテンマークを巻いている。
チームメイトのウェイン・ブリッジが保持していたプレミアリーグの連続試合出場記録を更新、2005年12月28日マンチェスター・シティ戦でウィルス性疾患のため遂に欠場するまで、足掛け4年・164試合連続出場という大記録を樹立した。この期間、怪我をしないだけでなく、ミッドフィールダーという消耗の激しいポジションで、さらに累積警告による出場停止もないことから神懸り的な記録である。